藤田嗣治ゆかりの平野政吉美術館が閉館 & あの乳白色はベビーパウダー

フランスで最も有名な日本人画家、藤田嗣治の大作「秋田の行事」を所蔵する、平野政吉美術館が6月に閉館するそうです。
この美術館の建設の経緯ですが、「藤田の妻マドレーヌが29歳で急逝。落ち込む藤田に平野が鎮魂のため、建設を持ちかけた」そうで、なんとも残念ですね。
藤田作「秋田の行事」ですが、フジタ好きの方はご存知かと思いますが、平野に世界一の絵を描いてくれと言われたフジタは、たんに大きな絵ということなら後に抜かれるかもしれないので、誰に真似できない速さで描こうと約束し、365cm×2050cmの巨大な絵をたった15日間で描きあげたといいます。(絵には「174時間で完成」とサインしてあります)
平野政吉美術館には、他にも有名な作品ですと、「眠れる女」、「カーナバルの後」、「自画像」など、日本画、素描、版画を含めると105点もの作品が所蔵されています。いかに藤田にとっては大切な美術館なのがうかがい知れます。
「秋田の行事」
「眠れる女」(1931年作)
「カーニバルの後」(1932年作)
「自画像」(1936年作)
閉館に秋田では反対運動もあったそうですが、無理だったみたいですね。
(※画像はクリックで拡大します)
そして下の記事には、とても貴重な、平野政吉美術館建設時、昭和12年2月24日の秋田魁新報夕刊の記事。
実は、フジタのトレードマークとなっている、あの乳白色はベビーパウダーを使用していたとの記事もあります。
以下、記事
●6月閉館、秋田・平野政吉美術館 幻の建設、新資料発見
2013年4月22日0時38分
日本画を描く藤田嗣治(右)と平野政吉=1936年7月
新県立美術館に作品を移すため、6月で閉館する秋田市の平野政吉美術館。閉館を前に、第2次世界大戦で幻に終わった美術館建設に関わる新たな資料が見つかった。日本を代表する画家で、秋田と縁が深い藤田嗣治(つぐはる)=1886~1968=の大作「秋田の行事」を、どのように見せようとしていたかがわかる貴重な資料という。
美術館は67年、資産家で美術収集家の平野政吉のコレクションを展示する県立美術館としてオープンした。大壁画「秋田の行事」(縦3・65メートル、横20・5メートル)など、多くの藤田作品を持つ。現在、最後の企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢」が開かれている。
運営する平野政吉美術財団によると、美術館の建設構想は戦前にさかのぼる。36年、藤田の妻マドレーヌが29歳で急逝。落ち込む藤田に平野が鎮魂のため、建設を持ちかけた。38年に秋田市八橋本町の日吉八幡神社境内で工事が始まったが、戦争で、すぐに中止になった。
新たに見つかった美術館の設計図=平野政吉美術館
http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201304210192.html
●秋田市 冬の町描いた巨大な絵 藤田嗣治が戦前に制作
2013/1/16付
今年9月、秋田市に新しい県立美術館が開館する。道路をはさんで向かいにある現在の県立美術館に展示されている藤田嗣治の絵画「秋田の行事」も新美術館に移される。
20世紀前半にパリで絶大な人気を誇った藤田が描いた「秋田の行事」は高さ3メートル65センチ、幅20メートル50センチという巨大な絵画。秋田の様々な祭事と日常が描かれ、基調となる季節は冬。現美術館で、冬に「秋田の行事」が見られるのは、今冬が最後だ。
秋田駅から現美術館までは歩いて10分ほどの距離だが、大雪のために、思った以上に時間がかかった。江戸時代に久保田城があった千秋公園の堀のむこうに、教会のような三角の屋根が見える。この建物の2階に「秋田の行事」は展示されている。展示室の入り口からは絵の一部しか見えない。中に入ると巨大な絵に驚かされることになる。
乳白色の裸婦像で知られる藤田だが、1930年代に入ると濃厚な色彩に画風は変容する。また巨大な絵画の制作にも積極的だった。2つの要素が見られる「秋田の行事」は、30年代の藤田を代表する作品だ。
この作品がうまれるきっかけを作ったのは地元の豪商・平野政吉。藤田作品を多数購入していた平野は、秋田市に藤田の美術館を建てようと考える。その美術館のために藤田が描いたのが「秋田の行事」だった。
藤田が描いたのは、当時の商人町「外町(とまち)」の様子。横に長い絵の右側には様々な祭事が、左側には日常が描かれる。この絵を描くために、藤田は何度も秋田市を訪れた。
外町は千秋公園から旭川を越えた西側に広がっていた。藤田が見た日常風景はほとんど残っていないが、当時の建物や祭事の風習は民俗芸能伝承館で見られる。絵の中央で、祭事と日常を分けるように描かれた香櫨木(こうろぎ)橋も現存する。ただ実物は絵よりも小さい。
平野が用意した米蔵をアトリエに、藤田が「秋田の行事」を描いたのは1937年(昭和12年)。翌38年には美術館が着工するも、戦時体制のため工事は中断。米蔵に保管されたままだった「秋田の行事」が日の目を見るのは30年後の67年。行政と平野家、そして一般からの寄付で完成した現美術館に展示された。
「秋田の行事」を所蔵する平野政吉美術財団の原田久美子さんによると、美術館の建築にあたり、平野家の親族が当時パリ郊外に住んでいた藤田を訪ね、意向を反映した。その1つが鑑賞空間に自然光を取り入れること。そのため印象的な三角屋根は採光窓が設置されている。
9月の開館を前に暫定オープンしている新美術館を訪ねてみる。建築家・安藤忠雄氏が手がけた近代的な美術館の2階ラウンジから、ガラス越しに現美術館が見えた。いすに腰を下ろすと、二つの美術館の間に走る道路が見えなくなる。ガラスの外に作られた水庭が、千秋公園の堀から続いているかのようだ。
新美術館には至る所に三角形をモチーフとした造形が見られる。安藤氏は現美術館の三角屋根をイメージしたという。あの屋根が、藤田の希望を反映したものだと知っていたのか。
「新美術館への移転は『秋田の行事』第3章の始まり」と原田さんは考える。第1章は実現しなかった幻の美術館、第2章は現在の美術館。「藤田の意図が反映された鑑賞空間を離れ、現代の建築家が作った空間でどう見えるか」
雪道を歩き現美術館へ戻った。新美術館での姿を想像しながら、藤田が望んだ空間にある第2章も記憶にとどめようと考える。現美術館で「秋田の行事」が見られるのは6月末までだ。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO50612340V10C13A1EL1P01/
●公益財団法人平野政吉美術財団
企画展「藤田嗣治の祈り 平野政吉の夢 -ファイナル平野政吉美術館-」
藤田嗣治の壁画≪秋田の行事≫をはじめとする
平野政吉コレクションを展示するために、
美術館を建設しようという機運が、1960年頃、秋田県で高まります。
これを受けて、フランスを訪れた平野家親族に、≪秋田の行事≫の展示について、
藤田は礼拝堂のような大空間を示しました。
この時、藤田の脳裏には、おそらく遠い過去の出来事、1936年に計画され、
幻となった美術館が浮かんだことでしょう。
それは、亡くなった藤田の妻・マドレーヌの鎮魂のために、
平野によって提案された美術館でした。
≪秋田の行事≫は1937年、この美術館の壁を飾るために描かれました。
しかし、戦時体制下のため、建設は中止されます。
戦争をはさむ長い年月を経て、1967年5月に、現在の秋田県立美術館が開館。
その中に、平野政吉コレクションを展観するスペースが設けられ、
46年間、平野政吉美術館として親しまれてきました。
藤田の祈りと平野の夢が融和する大空間を、これまで100万人ほどが訪れました。
平野政吉美術館は、今年6月30日で閉館します。
閉館にあたり、平野政吉美術館の歴史を写真で巡り、
1930年代の藤田作品を、エピソードとともに時系列で展観します。
期間 平成25年4月5日(金)~6月30日(日)
会場 秋田県立美術館 2F 大展示室 小展示室
主催 公益財団法人平野政吉美術財団
http://www.pic-hiranofound.jp/kikakuten.html
●[平野政吉美術館建設の新聞記事]
藤田嗣治氏・大壁画製作に着手(昭和12年)
秋田ローカルのバラエティ 秋田美術館の大壁画
藤田画伯が 愈々(いよいよ) 揮毫(きごう)に着手することになった
藤田嗣治(つぐはる)画伯は いま市内下米町の平野政吉氏所有21坪の土蔵をアトリエに「秋田美術館」の「大壁画」製作にかかった、高サ2間(約3.6m)長サ11間(約20m)のとてつもない大キャンバスが土蔵の中一ぱいになった前で 藤田画伯は汗だくになっ(て)いる
「冬の秋田」が左の方に描き出され、馬橇(ばそり)やら、ボッチの子や角巻姿、カッパ姿が吹雪に立ちつくすポーズ 「竿燈」の勇ましい男衆のすさまじい肉体が六つばかり、それに、ぼんでんの屋台がちょっぴり描き出されている、雪沓(ゆきぐつ)をはいてパイプをくわえた画伯が 膨大な素描のうえからべたべたと一気にあぶらをぬたくっていく、すばらしい秋田の群像バラエティだ、風俗を中心として物産も描かれる、4 5百名の人が画面に躍動してくる予定だという、この12色の絵具やなんかの材料代だけでザッと3千円。
画伯はこれから毎日12時間ぶっ通しで合計700時間の予定で完成させる勢いでいる、秋田へ「壁画時代」がいよいよ出現するわけである(写真は製作中の画伯、中央パレットを手に起てる人)
昭和12年2月24日 秋田魁新報夕刊の記事
http://blog.livedoor.jp/nobo_wata/archives/8297850.html
●藤田嗣治、あの乳白色はベビーパウダー (読売新聞)
(制作中のフジタ1947年頃。土門拳撮影)
読売新聞 1月13日(木)3時9分配信
優美な裸婦などを描き、乳白色の絵肌で知られる画家・藤田嗣治(ふじたつぐはる)(1886~1968)が、戦時中の作品で日本製のベビーパウダー「シッカロール」を画材に用いていたことが分かった。
3月から藤田の企画展を行うポーラ美術館(神奈川県箱根町)が12日、明らかにした。
1942年頃、写真家の土門拳が制作中の藤田を撮影した一連の写真を、同館の内呂(うちろ)博之学芸員が調査したところ、キャンバスの脇にシッカロールの缶が写り込んでいた。生乾きの画面にかけてすり込むか、油絵の具に混ぜるかしたと推測されるという。
藤田は生前、自らの技法をほとんど語らなかったことで有名で、独特な乳白色の発色については、謎に包まれた部分が多かった。近年の修復調査で、20年代の作品の表面からシッカロールの主成分でもある「タルク(滑石)」が検出されていたが、具体的に何をどう用いたかはよく分かっていなかった。
最終更新:1月13日(木)3時9分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110112-00001216-yom-soci
当時の和光堂SICCAROLシッカロール(ベビーパウダー)
画像参考元
藤田嗣治・乳白色の肌のひみつ
http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-1478.html
藤田嗣治 - Wikipedia
乳白色の肌の秘密
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らなかった。近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされた。藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていた。
炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びる。さらに絵画からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表された。
この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳による1942年の写真から判明した。以上の2つが藤田の絵の秘密であったと考えられている。
1940年代に土門拳が撮影した写真。額縁を自ら作っている藤田の腕には、腕時計と指輪のTATOOをしている
藤田嗣治の東京のアトリエ 1942年撮影
キャンバスを立て掛けないで、日本画のように床に置いて描いていた
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